「ゲーテの手」── 黒と黒 ─ 手技(アルス)の深層Ⅰ  樋口健彦VS留守玲 二人展

2019年10月12日(金)〜11月3日(土)

「ゲーテの手」── 白と白 ─ 手技(アルス)の深層Ⅱ  さかぎしよしおうVS徳丸鏡子 二人展

2019年11月7日(水)〜12月8日(土)

 

ギャラリー册では、10月12日より「2018年秋、工芸と美術の交わり」と題して2つの展覧会を開催いたします。国立近代美術館の工芸館にもほど近い千鳥ヶ淵、心地よいお堀散策を兼ねて芸術の秋をお楽しみください。

 


現代工芸と現代美術の先鋭的交わりは、すでに彫刻か、工芸かという判別そのものを超えて、彫刻や工芸にそれぞれ固有の、に沈潜し、それを極限にまで極め、そこに表現者そのものの身体を投げだし、投企するような、そして同時に、限りなく自己反省的で内省的時間を内包しようとする、謂わば「哲学的」とも言い得る批評的営為を併せ持っていて、今、瞠目すべき活況を呈している。ここに、その先鋭的先端を示す、四人の現代作家を紹介する。

シリーズの第一回は、黒と黒、生命の内部器官のような形象を、ミニマルで自省的な黒い焼きもので展開し続けて評価の高い、樋口健彦と、近年、鋳物の粒の焼き付けによって、驚くべき、「表面」の彫刻化を成し遂げつつある留守玲の、ダイナミックにぶつかる二人展。

シリーズの第二回は、磁土の丹念、精密なたらし込みを焼成した立体で、圧倒的な宇宙観を示し続けるさかぎしよしおうと、白い、「花びらが生命のように燃える」焼き物で、部分と全体の一体となった造形を追い、「言祝ぎ」を謳歌する徳丸鏡子、この二人の異なる境地を紹介する。
四人に共通するのは、「手と物質」の接触点、「植物生命の成長の先端の出現」にこだわるその姿勢であって、それはある意味きわめてゲーテ的であって、ゲーテによる「生命成長理論」、その現代における、甦り、とも言い得るのではないか、という試論的試みである。

(註)「アルス」の考えについては北澤憲昭さんの論から借りた。
(註)ゲーテとゲーテの理論については、映像家、シュタイナー派の研究者である、能勢伊勢雄さんのものを拝借した。「日本において、ものづくりの原点には、生への言祝ぎがあった」とは、徳丸自身の言葉。

── ゲスト・キュレーター 新見隆(武蔵野美術大学教授、大分県立美術館館長、二期リゾート文化顧問)

 


「ゲーテの手」── 黒と黒 ─ 手技(アルス)の深層Ⅰ 樋口健彦VS留守玲 二人展

オープニングパーティ:10月12日(金)18:00〜20:00
※当日は海老澤宗香さん(裏千家)による呈茶席もお楽しみいただけます

 


「ゲーテの手」── 白と白 ─ 手技(アルス)の深層Ⅱ さかぎしよしおうVS徳丸鏡子 二人展

オープニングパーティ:11月7日(水)18:00〜20:00

 


写真上から
樋口健彦:医療法人伯鳳会 明石リハビリテーション病院 撮影:古川泰造
留守玲:「領域」鉄 
さかぎしよしおう:「4007」磁土 2004年
徳丸鏡子:「してえる島」磁器 2017年

REPORT

オープニングパーティ開催報告

10月12日、「ゲーテの手」── 黒と黒 ─ 手技(アルス)の深層Ⅰ 樋口健彦VS留守玲 二人展のオープニングパーティが開催されました。

当日は大変多くのお客様にお越し頂き、出展作家の樋口健彦さん、留守玲さん、徳丸鏡子さん、さかぎしよしおうさんと企画を監修された新見隆氏を囲み、楽しい歓談のひとときを過ごしました。

10月12日のオープニング後に、新見隆氏からエッセイが寄せられましたのでご紹介いたします。

 


ゲーテの手、あるいはメフィストフェレスの炸裂 ──「黒と黒、白と白」の余白に

 

「星々の血の歓喜」

十月になってやっと肌寒い夜が訪れるようになった東京千鳥ヶ淵で、その夜、かなり賑やかな夕べがあった。皆、楽しげに笑いさんざめき、冗談を言い合って、ギャラリー冊での、久々の美術展の開催を祝い合った。作家やジャーナリスト、旧知の知古、新しい顔、多種多彩な面々。白ワインのまわりが事の他早かったかもしれない。
過去ここでの幾つもの会や、展示、賑やかな集いが脳裏をよぎった。
素敵な賓客、ベルギー大使夫人、ラヘルさんも、その、温和で和かな笑顔を見せて、お祝いの言葉を述べてくれた。彼女はエチオピアの人。慌てて緊張したか、東京オリンピック、最後の競技マラソンの勝者、あの誇り高い「裸足の英雄」アベベ・ビキラの話をするのを忘れてしまった。私どもの世代には、懐かしくてたまらない思い出だ。
夜を透かした賑わいの向こうに、私はずっと、この夏聴き続けてきた、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」、その夜空に炸裂する多彩音響、ポリフォニーの第五楽章を聴いていた。
メシアン自身が、この長大な曲のどこかを選んで演奏するならここと指定したという「星々の血の歓喜」、まさに、インド的タントリズム、性賛美の恍惚感漲る、二十世紀の驚異の一つであった。(註1)
ナチス・ドイツの捕虜となったメシアンが収容所中でつくったのが、かの「世の終わりのための四重奏」であって、帰還した彼が、荒廃したフランスで、戦後まっさきに世に問うたのが、この宇宙的な性賛美の煌めく炸裂であった。
そして私は、この夏、五回も大分の海に浮かんで、真夏の空を眺めた、その波間に浮遊する身体のことを、思い出していた。
月は出ていなかったが、澄んだ蒼い夜空だった。その時、蒼い夜空に、音も無く炸裂する、無音の花火を見たような錯覚が訪れたのであった。
ふと、明恵の有名な歌を思い出した。
「あかあかと、あかあかあかと、あかあかと。あかあかあかと、あかあかと月。」(註2)

 

四つ供えの魔法陣 ── メフィスフェレスの炸裂

「黒と黒」の作家二人は、恬淡と、生命器官内部的というか、肋骨にも思える重層させた板状の、黒い焼き物をつくり続けて来た、樋口健彦と、これも、樹の幹や皮の抜け殻のようにみえる、肌合いの微細な、鉄の溶接、粒状の吹き付けや溶かし付けを、長くやって来た、留守玲の二人である。
樋口健彦の作品は、素焼きにバーナーで吹き付けた陶の、ある種「艶なる」黒い表情を、生命器官的形態に、叩きつけて来た。かつては肋骨のようにみえた有機が、やがて、黒い板状の積層に、ある時期はなった。そこから、彼特有の一種の逡巡が始まったようにも思えたが、今回の(じつは、震災後につくったという)、大きく開いた貝のような、極薄に外に広がった形が生まれ、そして、この展示に見られる、まるで中身を抜いた、ガンジスの太古の時間が産みだした丸石のような、無類の表情が顕れた。
留守の仕事には、現代工芸で盛名高い、菊池智賞を受けた前後から、かなり大規模な、樹状の、生命的な、祠のような大作が顕れた。それは、微細に胎動する、留守の真骨頂である、鉄の粒を焼き、溶かし付けた、「生命の充溢する表面」を、びっしり、これでもか、という勢いで従えてもいた。
留守本人は、ユーモラスで知的な人間的個性でもあるが、それが仕事好きの丁寧な年月を濾過させて、今夏の、竹橋は近代美術館の工芸館での夏の特別展に、コーナー紹介された、圧倒的な一群の出現を生んだ、とも思える。哲学的で剽軽、詩的で秀逸なタイトルは、いささかの嫌味無く、うだるような今夏のお堀端を、冷気のように睥睨していたと言って、過言でない。あの思い出はまた忘れ難い。
後半は、「白と白」。さかぎしよしおうと徳丸鏡子である。
もうすでに、巨匠?として揺るぎない地位と評価を得ているさかぎしは、謂わば彫刻=立体の本質、起源をひたぶるに問い続けた希有な個性であって、また自らそう表明するように、芸術の媒介性、つまりかの世紀末ドイツの詩人リルケがその「ロダン論」で喝破したように、「未だ美をつくり、見いだした者はいない、芸術家はその美の降り立つ神殿を整えて、待ち続ける媒介者である」と信じる、誠実な芸術家の原型的男である。(註5)瞠目すべき深化を見せていると予想される新作と合わせて冊の白い旧作も見ていただけると幸いだ。
最後に徳丸だが、彼女がかつて、「日本におけるものづくりの原点は、人間の生の営みを讃える、言祝ぎにある」と飲み会の席で漏らした言葉に、いたく感銘を受けた。それが大分の二年目の展観、「生の言祝ぎ」に繋がったことであった。
江戸っ子徳丸は、意外にも、熱いストレートな個性であって、彼女と飲むのも私には、無類の楽しみである。彼女の、南国の花弁の盛り貼り付いた、白い抹茶茶碗で、独特の手触りで紅茶を飲むのが、また私の日常である。

・   ・   ・

企画の意図には、ゲーテの言う、あるいはゲーテを解釈するシュタイナーのいう、生命エントロピーの源にある、植物尖端における、「内に=生命に」抉れ込み、「宇宙へ」弾け出るような、謂わば表現主義的な、生命観を、この四人の仕事の向こうに、透かしみたい、という私の欲望があった。(註6)
それは、ちょっと語弊があるかも知れないが、かの『ファウスト』の、悪魔に魂を売った、メフィストフェレスが、天空を飛びながら、人間共の俗物性の混沌を嘲笑う、宇宙的咆哮、その炸裂が見られるに違いない、と私は信じている。


(註1)メシアンと「トゥーランガリラ」については、小澤征爾がニューヨークフィルを指揮したCDの解説、秋山邦晴だったか、すべてそこからの借り物。(註2)『方丈記』の鴨長明と同時代の、明恵上人の歌らしいが、教えてくれたのは、優れた音の美術家、藤本由紀夫。(註3)西欧におけるミュージアムの起源論には諸所あり、これも出典を今は煩雑なので、定かには記さない。(註4)三浦梅園については、国東の梅園記念館の学芸員、浜田晃さんの説や、記念館発行の図録類の解説から学んで借りている。(註5)この引用は、岩波版高安国世訳を記憶でひいているので、確証は無い。(註6)どうせ人様の受け売りだが、エントロピーについてはどこで学んだかは定かで無い。ゲーテのシュタイナー的解釈については、畏敬する映像作家、能勢伊勢雄さんから学んだ。


聖イグナチオ司教殉教者の記念祝日に。

── ゲスト・キュレーター 新見隆(武蔵野美術大学教授、大分県立美術館館長、二期リゾート文化顧問)

Close

50% Complete

Two Step

Lorem ipsum dolor sit amet, consectetur adipiscing elit, sed do eiusmod tempor incididunt ut labore et dolore magna aliqua.