PORTRAIT YOSHIHIKO UEDA
上田義彦写真展 ポルトレ

 

2023年7月21日(金)~9月29日(金)

定休日:土曜・日曜・祝祭日 休み
夏期休暇:8月11日(金)~8月16日(水)

 

20世紀末から今世紀はじめにかけて、上田義彦が月1回のペースで撮影した38人の肖像を収めた『ポルトレ』。昨年、田畑書店より普及版として刊行されました。
ギャラリー册では、安岡章太郎、大野一雄、大島渚など、作家や芸術家など厳選したポートレイト写真を展示します。
昭和を生きた巨匠たちをとらえた写真が、時を超え、繊細なディテールをもって語りかけてきます。被写体の人格のみならず、その場の空気までを撮る、上田義彦によるポートレイトの真骨頂をぜひご覧ください。

写真上から:安岡章太郎/嵐山光三郎/車谷長吉/大島渚 ©︎YOSHIHIKO UEDA

 


流れだす肖像

伊藤俊治(美術史家/東京藝術大学名誉教授)

1.

対面が禁じられた長い時のなかで肖像写真の意味は大きく変わってしまったのではないだろうか。「ポートレイト」という言葉は、人物を〈前にして(por)+描く(trait)〉を語源とするが、この人物を前にして描くことが著しく困難な時代を私たちは経験してきた。
巷間にはおびただしい数のポートレイトが溢れる。しかしそれらのイメージから、ある人を前にした感情の変化や場所の気配を感知することはもはや不可能である。上田義彦の『ポルトレ』を見ながらあらためてそのことを想う。この写真集を眺めていると、独特の存在感を持つ人々を前にして撮影した写真家の共感や息づかいが細やかに伝わってくる。
『ポルトレ』は、20世紀末から21世紀初めにかけて上田義彦が撮り続けた38人の肖像が収められている。一枚一枚の写真のなかに生きているのは作家・安岡章太郎から映画監督・大島渚まで、舞踏家・大野一雄から写真家・森山大道までの日本を代表する文化人たちの風貌である。時代はいつも留められるべき多彩な表情を湛えている。記録されるべきいくつもの顔がそこにはあった。撮影当時、上田は40歳前後であり、被写体の多くは彼より年長だった。記憶と年齢を重ねながら日常へ誠実に向き合ってきた人々であり、彼らの精神の内奥に触れる幸福がどの肖像にも横溢する。畏敬の対象を前に、向き合い、対話し、時間を共有したことが写真から身に沁みいるように確認できる。(註1)

2.

『ポルトレ』の人々は何か自分を超えたより大きなものの存在に気づいているかのようだ。ある人は外面を忘れ去り内なる自分に沈潜し、ある人は表情に無意識の混沌を生々しく露呈させる。またある人は弱さを隠さず孤独の震えを垣間見せ、ある人は老いに従い放心したように現実の向こうを見つめる。写真家と被写体は互いに映発し合う特別な関係のなかで振動する。
このような繊細な肖像写真が成立した背景には撮影された時代も作用している。前世紀末から現在まで日本人の内面は大きな変容に晒されてきた。『ポルトレ』が撮影されたのはその直前であり、モバイルネットワークやメディアテクノロジーの過密さが日本を覆い尽くす以前のことである。だから『ポルトレ』には、この20年余りの情報環境や社会状況の激変の洗礼を受けることの無かった人間の顔の深度や親密さが宿されている。人々はまだ佇まいというものを残し、その醸し出す雰囲気や暮らし方が身振りに染みわたり、えも言われぬ霊気のようなものを放射する。人間とは肉体の輪郭線で区切られたものではなく、その輪郭線が溶けだし液体のように空間に浸潤してくるものであることを肖像は写し出している。

3.

上田義彦がファインダーを通し向き合った人物の表情から私たちは決して同一化されることのない精神の立ち姿を直感する。人と人が対峙し、像となりつつある人間と共に呼吸したことの徴がそこに刻み込まれている。時代を生き抜いてきた人物と対面し、その人々の沈潜や放心、潜在意識や脆弱さを適正な距離と共に見届けようとした。そのような意味で『ポルトレ』は、肖像写真の最後の時代における人間の際を写しとめた写真と言うこともできるだろう。
肖像写真の歴史を振り返ると、写真の秘密の核心をなす特別な磁場がこの領域で生まれてきたことがわかる。例えば「顔」である。「他者」は「自己」のなかで多かれ少なかれ同化されてしまうものだが、顔だけは同化されることはない。顔は抑圧への抵抗の象徴となり、剥き出しにされた無防備な顔は同一化を否定する根拠となってきた。そしてこの顔を捉えようとする写真家には常に「他者」を引き受ける覚悟が伴うことになる。
顔には私たちの存在をめぐる本質的な問いがはらまれている。その無数の特異点の存在により顔は「他者」の現れの場となり、「自己」と「他者」がぶつかりあう状況を設定する。写真家は相手の顔と眼差しを見つめる。顔と眼差しを見つめるということは、写真家を目がけ、やってくるものを全身で受けとめるということである。その時、写真家はどのような同一化の力によっても破壊されることのない被写体との関係へ誘われてゆく。

4.

「FACE TO FACE(対面)」という成句は宗教的な意味合いも持つ。フランスの思想家エマニュエル・レヴィナスは、顔を「神の存在を瞬間的に覗かせる」ものとした。あまりに複雑で捉え難い性質を顔が秘めているため、それを「神の全体的な人格」を表す比喩とみなし、対面を神と人間の対峙が行なわれた証と解釈しようとした。顔を凝視するということは「自己」から抜け出ることである。神と人の間にとどまり、その関係を生きることが対面である。「他者」に吸収されることなく見続けること、それが顔を見るということなのだ。(註2)
上田義彦の『ポルトレ』には、こうした対面に伴う隠された霊性の探求が秘められている。しかしこの霊性とはレヴィナスの言う西洋的なスピリタス(霊性/精神)とは異なる。
それは言わば精神と物質を超えた日本的な霊性であり、生活の隅々に浸透する民族精神、広範囲に根を張る文化的性質、奥深い芸術伝統の蓄積、独特の死生観や風光風土といったものの総体から滲み出てくるものだ。個人にもそのような霊性が働いている。上田はそうした霊性が人に働きかける瞬間を待ち続け、その現出を目撃しようとした。するとレンズの向こう側とこちら側が揺れ始める。滞留していたものが流れだし、写真家も被写体もその流れをとめることができなくなる。
肖像写真の奇跡とはその揺動の湧出を言うのではないのだろうか。その揺めきは厳然として目前に現れていながら、それがいったい何なのかは永遠の謎のまま残されてしまう。しかし像だけは流動するスクリーンとなり写しとめられる。この奇跡により肖像は一義的なイメージへ回収されることなく、生きた可能性に開かれ続ける。その定着の過程を精緻に捉えた『ポルトレ』は、日本人の霊性を湛えた稀有な写真として今後も記憶されることになるだろう。

(註1)上田義彦写真集『ポルトレ』(田畑書店)
(註2)エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』(藤岡俊博訳 講談社学術文庫)

 


上田義彦 YOSHIHIKO UEDA

1957年、兵庫に生まれる。写真家。多摩美術大学教授。東京ADC賞、ニューヨークADC、日本写真家協会作家賞など、国内外の様々な賞を受賞。2011年にGallery916を主宰。代表作に、『Quinault』(京都書院、1993)、『AMAGATSU』(光琳社、1995)、『at Home』(リトルモア、2006)、『Materia』(求龍堂、2012)、『A Life with Camera』(羽鳥書店 、2015)、『FOREST 印象と記憶 1989-2017』(青幻舎、2018)、『68TH STREET』(ユナイ テッドヴァガボンズ、2018)、『林檎の木』(赤々舎、2017)、『PORTRAIT』(田畑書店 、2022)『Māter』(赤々舎、2022)、『いつでも夢を』(赤々舎、2023)などがある。また 、2021年に公開された、映画『椿の庭』は大きな反響を呼び、映画監督としての仕事も注 目されている。

 


トークショーのご案内

8月25日(金)17:00より上田義彦さんのトークショーを行います。
定員:15名(予約先着順)
参加費:3,000円(茶菓付)※会場にてお支払い
お申込み・お問い合わせ:ギャラリー册(03-3221-4220)

 

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